8月9日(土)から公開される『めぐり逢わせのお弁当』、今日は前回のサージャンに続き、ヒロインであるイラのお話です。
(C)AKFPL, ARTE France Cinema, ASAP Films, Dar Motion Pictures, NFDC, Rohfilm - 2013
イラは、ムンバイ市の北の方に住んでいる平凡な主婦。ちょっと古びたフラットの、3階ぐらいにある部屋に住んでいるイラ一家の家族構成は、30代前半と思われる割とハンサムな夫(ナクル・ヴァイド)、30歳前後のイラ(ニムラト・カウル)、そして小学校低学年の娘ヤシュヴィの3人です。夫は鉄道を利用して、シティと呼ばれるムンバイの中心街に出勤しています。前に取り上げたサージャンが住んでいるバンドラという地区が、シティと郊外との境目になっているのですが、イラの一家はそれよりも北、つまり郊外地区に住んでいることがわかるようになっています。
どうしてわかるのかって? それは、最初にイラの家庭が映された時、娘ヤシヴィが乗り合いのオートリキシャ(オート三輪のタクシー)に乗って学校へ行こうとするシーンが出てくるからです。ムンバイでは、オートリキシャはシティに乗り入れることを許されていません。バンドラ以北しか走ってはいけないという決まりがあるのです。
この時のオートリキシャには、小学生がすでに何人か乗っています。いくつかの家庭がオートリキシャの運転手と契約して、毎朝各家庭を回って子供たちをピックアップし、学校に送り届けてもらうというシステムです。小さい子供なので、定員2名の座席でも詰め込めば5人ぐらい乗れるのですね。下校時は反対に、学校から各家庭へ。そういう子供たちを満載したオートリキシャには、街でもよく行き合います。
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イラは娘を学校に送り出すと、すぐに夫のお弁当作りに取りかかります。夫は朝はチャイ(ミルクティー)とビスケットぐらいで済ませたのでしょうか。何となく、トーストなどをゆっくりと食べてから出勤する夫には見えません。通勤時間も長いし、会社に着いたらすぐまたチャイも出てくるし、というところですね。朝食をしっかり食べて出勤する人は、庶民ではそう多くない感じがするのがムンバイです。
一方インドの昼食時間は午後1時からなので、お弁当はそれぐらいの時間に各職場に届けられます。とすると、集荷は10時半頃でしょうか。イラがこの日作っていたのは、ご飯(何か炊き込んであるようです)とチャパティ、それに細切りココナツをかけたお野菜のカレーとダール、つまり汁気の多い豆のカレーです。それを4段重ねのお弁当箱に順番に入れて、お弁当袋に入れてからダッバーワーラー(弁当配達人)に委ねます。上の写真で、イラの後ろにかかっているのがお弁当袋です。このグリーンのお弁当袋、よく憶えておいて下さいね。
この時、上階に住む「おばさん(アンティ)」ことデシュパンデー夫人から声がかかります。おばさんは、上階に流れてきた匂いで、あるスパイスが足りないと察知し、それを籠に入れておろしてくれます。おばさんは自信に満ちた声で、「料理は愛を深めるんだよ」と言ってくれます。実はこの時、イラは夫の心変わりをうすうす感じており、何とかその愛情を取り戻そうとして腕によりを掛けたお弁当を作っていたのでした。
ところが、そのお弁当がダッバーワーラーの手から手へと渡り、電車に1時間ほど揺られてシティに運ばれたあと、配達された先は定年間際の会社員サージャン(イルファーン・カーン)の事務机の上でした。ダッバーワーラーの誤配の確率は600万個に一つというのに、どうしてまた? 映画の中にそれを解くヒントが隠されていますので、ご覧になって見つけて下さいね。
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こうしてお弁当箱を通じて、イラとサージャンの文通が始まり、その過程でイラの事情がいろいろと明らかになっていきます。イラの夫はやはり浮気をしているようであること、イラの実家はムンバイのシティにあり、父は肺ガンで床についていて母が看病していること、イラの弟は試験(大学入試のようです)に失敗して自殺してしまったこと....。ある日娘と一緒に実家を訪ねたイラは、実家が経済的に困窮していることを知ります。イラの家は夫の給料がよいらしく、すぐに実家に援助を申し出るのですが、このようにイラも決して幸せではないことがわかってくるのです。
妻をずっと前に亡くし、定年間近という孤独なサージャンと、平凡な主婦の幸せを手中にしているように見えながら、不幸の種を抱えているイラとが、手紙のやり取りで少しずつ少しずつ距離を縮めていきます。そしてついに、イラは自分の方から一歩踏み出そうとします。受け身のように見えて、イラは本当は芯の強い女性なのです。
そのイラの精神的支柱となってくれるのが、上階のおばさんです。「イラ」という名前は「大地、大地の女神、パールヴァティー女神、サラスワティー女神」等々の意味を持つのですが、おばさんこそ大地の女神にふさわしい貫禄と心映えを持つ女性です。おばさんも本当は不幸の種を抱えていることが映画の中で語られますが、その種を育てて花を咲かせてしまうようなパワーがおばさんにはあって、イラならずとも頼りたくなってしまいます。映画の中でおばさんは声でしか出てこないので、観客が様々なおばさん像を描くことができるというのも、とっても粋な演出ですね。
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それにしても、イラにはほかに友人はいないのでしょうか。そういう設定とか、イラに思いっきり地味な衣装を着せているのは、監督の深い意図があってのことかも知れません。何せ倍ぐらいの年であるサージャンに惹かれるためには、イラの側にも彼を受け入れられる要素がたくさんないといけませんからね。イラの衣装は、家庭ではもちろん、外出時もサルワール・カミーズ(パンジャービー・ドレスとも言います)です。それも、細かい模様の色目も地味なものばかり。夫に自分の魅力をアピールするために着てみせる新婚旅行の時のサルワール・カミーズも、かわいい柄ではあるものの白色なのです。フツー新婚さんは、もっと派手な色目のを着るでしょうに。
というわけで、『めぐり逢わせのお弁当』には、『マダム・イン・ニューヨーク』のようにきれいなサリーを鑑賞する楽しみはありません。でも男と女の心が、一度も会ったことがないままどのように触れ合い、結びついていくのかを、私たちはじっくりと見ることができます。そして、愛情を込めて作られたおいしい食事が、どんなに人の心を軟らかくするのかも。
イラを演じているニムラト・コウルは、演劇畑の出身だそうです。これまで映画に出たことはあるのですが、まったく知られていない女優でした。それだけに、著名な男優2人、サージャン役のイルファーン・カーンとシャイク役のナワーズッディーン・シッディーキーに挟まれて、彼女のパートがよけいに光を放ちます。名優2人の演技には見られないひたむきさのようなものが伝わってきて、それがイラと二重写しになるのです。
先日のブログに書いたマンガルスートラ(婚姻の印のネックレスで、夫が存命である妻だけが付けることができる)にもご注目下さい。『めぐり逢わせのお弁当』は2度ご覧になると、劇中に散りばめてあるいろんなサインに気づくことができます。とても緻密で、胸にしみ入ってくるような作品ですので、ゆったりとしたご鑑賞をお勧めします。詳しくは、公式サイト、公式FBでどうぞ。